早食いも贅沢も江戸から始まった!?現代につながる江戸時代の食事
2017/09/08
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「おばちゃん熱燗頂戴!…」
大衆酒場のようなところで飲み食いしながら賑やかに情報交換をする人々。
そんな場面を時代劇で1度は見たことがある方も多いのではないでしょうか…。江戸時代を生きた人は当然ながら現代にはいません。しかし、現代までの数多い時代の中でも江戸時代は時代劇の影響もあり比較的私たちがイメージしやすい時代ではないでしょうか…。江戸の時代の人たちが何を好み食べていたのか。
今回は“江戸時代の食”にスポットをあててみたいと思います。
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江戸の食文化
今の時代、“早い・安い・うまい”をイメージする食べ物と言えば何を思い浮かべますか?
牛丼、そばなどでしょうか。江戸時代後期になると仕事で外出する職人などは外食する人が増えてきたようで、それに伴い屋台も増えていったそうです。そば屋、天ぷら、鰻などの屋台が人気だったようです。当時は今と違って、天ぷら、鰻も “早い、安い、うまいと言われていたのには驚きです。
≪鰻≫なかでも鰻は、江戸湾の干拓事業に伴い、多くの鰻が獲れたため、安く手に入ったようで、鰻のことを「江戸前」と呼び鰻の蒲焼が大流行したそうです。そもそも「夏バテ防止のために土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場に売上が落ちることに悩んだ鰻屋が平賀源内に相談して考案した今でいう広告のキャッチコピーからきているそうです。
≪居酒屋の語源≫さらに今の時代、仕事帰りのサラリーマンやOLの憩いの場「居酒屋」は当時も庶民の憩いの場でした。元々、酒を売っていた酒屋がその場でも酒を飲ませるようになり“酒屋に居続けて飲む”というところから「居酒屋」と呼ばれるようになったと言われています。江戸時代がはじまりのものは思った以上に周りに溢れていますね。
江戸時代の庶民の食事
一般的には「ご飯、味噌汁、漬物」が多かったようです。私たちが普段当たり前のように使っている“醤油”“砂糖”が普及したのも江戸時代だと言われています。醤油や砂糖が普及したことで煮物なども食べられるようになりました。
しかし、農民は、幕府から米を食べることを制限されていた為、白米のみはほぼ食べることができずアワやヒエなどの雑穀を主食としていました。魚もほぼ口に入ることはなく、ちょっと裕福な家庭で月に1~2度口にできるほどでした。
武家の食事
武家も普段の食事は庶民の食事とほぼ変わらなかったようですが、武家は御家の体面や見栄を重んじるため、他家の者を招いた宴会や祝いごとなどの日は贅沢な食事を出していたそうです。
しかし、武家は“親類や先祖の命日は魚肉を食べない精進日”があったようで、何代も続く家ではしょっちゅう精進日と重なり魚肉を食べられる日は限られていたそうなのです。庶民とはまた違った理由で魚を食べることができなかったのですね。
将軍の食事
まず、朝食のお膳は2つに分かれていました。
★「一の膳」には、白米、汁、刺身、酢の物などの向付、煮物
★「二の膳」には、吸い物と焼き物(鱚は「喜ばしい魚」と書くところから縁起物として将軍はほぼ毎朝食べなければいけなかったそうです。調理方法はキスの塩焼きに付け焼きの二種と決まっていました。
ただし、1日、15日、28日は鯛や鮃の尾頭付きだったそうです。)
昼食もお膳は2つに分かれており、魚は鯛や鮃、カレイ、鰹がつきました。
ここで少し余談ですが、一の膳に汁があるのに、二の膳に吸い物が出てくることにお気づきの方みえましたか?なぜ2回も汁物が出てくるのか…。
日本料理は全て「おかず」で構成されている料理です。ご飯の「おかず」のことは“そうざい 惣菜”といい、お酒の「おかず」は“さかな 酒菜”と呼びますよね。汁はご飯のおかずの惣菜なので味が濃い目に作られるそうです。
確かに味噌汁とかもそうですよね。そして、吸い物はお酒のおかずなので味は薄めに作られる、と言われています。お酒は時間をかけてゆっくり呑むとされていたのであまり味を濃くしてしまうと、からだに負担になるからだそうです。
こんな昔から日本料理は考えられていたのだとしたら実に奥深いですね。
恐ろしい奇病“江戸患い”の正体は?
当時、江戸のまちで大流行した“江戸患い”とは一体どんな病気だったのでしょうか?
それは「脚気」という病気でした。脚気にかかると足がむくんだりするそうですが、脚気は“鶴足”と書き、肉が削げ落ちて鶴の足のように細くなってしまうからだとも言われています。
さらに症状が酷い場合、心不全により最悪の場合亡くなってしまうので恐ろしい病として江戸のまちの人たちにとって恐怖でした。脚気の原因は、ビタミンB1不足だと言われています。
白米そのものに悪いものが入っているのではなく、ビタミンB1は米のヌカ部分にあるので、玄米にはしっかり含まれていますが白米にすることにより、精米する時にヌカが落とされ、さらに洗われて炊くことによりビタミンが飛んでしまうのです。
つまり、白米ばかり食べることが問題なのです。
江戸時代でも江戸から遠い地方に住んでいる人たちは、米に麦や雑穀を混ぜて食べていて白米はなかなか食べることができないご馳走でした。まさしくそこに“江戸のまちで脚気が流行った理由”が隠されていたのです。
江戸に移り住んだ地方出身者は江戸に来て白米ばかりを食べ、副食を食べないことでビタミンB1不足により脚気になる人が多く、田舎へ帰り元の食事に戻ると症状が治ることから“江戸患い”と言われていたそうです。
脚気は、毎日白米だけを食べられる裕福な人に多かったようです。そのため、徳川将軍も脚気で苦しんだ人が多くいました。徳川幕府3代将軍の家光、10代将軍、家治、13代将軍、家定、14代将軍、家茂も脚気死で亡くなったと言われています。
江戸患いは玄米を食べている人には起こらない病だったので、江戸から遠く離れて住んでいる庶民は無縁の病だったのです。ちなみに関西(大阪)は粉もの(小麦粉)の食文化が多かったので江戸の方が脚気になる人が多かったそうです。脚気に苦しんだ江戸のまちの人々ですが、そんな状況の中でも意外が人物は脚気知らずで、長生きをしたとされています…。
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江戸の人たちの平均寿命と食との関係性
突然ですが江戸の人たちの平均寿命はどれくらいだったと思いますか?
ちなみに今の私たちの時代、男女共に平均寿命は80歳を越えています。聞いておいてなんですが江戸の人たちの平均寿命は実のところ“はっきりわからない”のが事実です。
一体どういうこと?!と思いますよね。その理由として考えられることは2つあります。
1つは、当時は今のように戸籍などがしっかり管理されていたわけではなかったのでどれくらいの年齢層の人がどれくらい生活している、といった把握がしっかりできていなかったことが理由にあがります。
そして2つめは、医療の発達がまだまだ発展途上で、特に乳幼児の医療発達が乏しかった為に、20歳まで生きられない子どもがとても多かったことです。
「7歳までは神の子」と言われていたほどですし、 江戸時代との関係が深い徳川家でも、11代将軍、家斉の子どもは男女合わせてなんと50人いたそうですが、半数が20歳までに亡くなっています。
また、12代将軍、家慶には男女合わせて27人の子どもが授かりましたが20歳まで生きられたのは“家定ただ1人”でした。将軍の子どもすらそのような状況の中で庶民はもっと酷い医療環境だったと考えられます。…といっても江戸時代でも長生きした人も沢山いたことは事実です。長生きした人がいても乳幼児の死亡率が高いと当然ながら平均寿命は低くなります。
研究者により平均寿命はまちまちのようですが、だいたい「30歳~40歳」が江戸の人たちの平均寿命だったのではないかと言われています。今で考えるととても短い人生だったのですね。実はこの「寿命」が「食」と深く関係しているというのです。
いったいどういうことなのでしょう…。
徳川家康の愛した食事とは?
「長命こそ勝ち残りの源である。」という名言を残したと言われる徳川家康。260年余りの江戸幕府の基礎を築きあげた彼ですが、食生活にはこだわりがあったそうです。
それは“麦飯と豆味噌”でした。三河の地方で生まれ育った家康は幼い頃から麦飯を主食にして育ったそうで、生涯その習慣を変えることはなかったと言われています。
家康の麦飯は、丸粒の大麦に胚芽やヌカの残った半搗き米を混ぜたもので、数多く噛まないといけなかったのです。咀嚼することにより、脳や胃腸の働きを活性化させ、ミネラルや食物繊維が豊富で便通も良くしたため、この麦飯こそが江戸のまちの平均寿命が30代~40代と言われていた時代に家康は75歳まで生きることができた長寿の源だったとされています。
さらにこんなエピソードも残されています。
家康が岡崎城にいた頃、家臣が気を利かせ、椀の底に白米飯を盛りその上に麦飯をかぶせて出したそうです。それに気づいた家康は、「わしの心を察していない。わしが先頭となって倹約すれば戦費の節約になり下々の者をいたわることにもなるのだ」と激怒したそうです。
質素倹約の精神もあったため、麦飯を好んでいたのですね。また、家康は、大豆100%の豆味噌も味噌汁にして好んでよく食べたそうです。豆味噌にはアルギニンという強壮効果のあるアミノ酸が豊富でキジや鶴の焼き鳥などの動物性たんぱく質も摂取していたそうです。
意識して摂っていたのかは分かりませんが、適度なたんぱく質と、アミノ酸、そして麦飯とバランスの良い食事が長生きの秘訣だったようです。
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天海が愛した食事とは?
徳川家康、秀忠、家光の3代に側近として仕えた天海。家康の知恵袋と言われた天台宗の高僧です。この天海はなんと江戸時代の初期に108歳という驚くべき長寿だったといわれています。
今の時代でさえ108歳まで生きることは容易いことではありません。その驚異的な長寿の秘訣は何だったのでしょうか…。それは“納豆汁とクコ飯”などの粗食だったのではないかといわれています。長寿には、適度なたんぱく質も不可欠なので納豆汁は納豆と味噌の両方から大豆のたんぱく質が摂取できる貴重なメニューだったのです。
天海は会津に生まれ、比叡山延暦寺や奈良の興福寺などで修行を積み、武田信玄にも仕えながら各地を巡った経験から、粗食にならざるを得ずその“粗食こそが体にいい”と悟ったそうです。納豆には、脳の老化を防ぐレシチンや血中コレステロールの濃度を低下させるサポニンも含まれます。実はこの“納豆”天海の故郷、会津の郷土食でもあったのでことさら好んで食べていたそうです。
さらに、クコの実と白米を一緒に炊いたクコ飯をよく食べていました。このクコの実は、古くから中国でも薬用として用いられており、クコには免疫力を高める薬効成分、が豊富に含まれています。
また、老化予防、疲労回復にも効果があると言われています。普段からクコの実を常用していた天海だからこそ、病気にかかりにくく108歳まで長生きできたのではないでしょうか。
江戸の食事にみる現代の食事
いかがでしたか?江戸時代の食文化は現代の私たちでも親しまれているメニューが数多く誕生した時代でもあったのが特徴です。各家庭によって食卓のメニューに差があるように、江戸時代といっても、住んでいる場所や家庭の台所事情で食生活には差があったようです。江戸のまちの人たちは意外とグルメだったのですね。しかし、江戸から離れた地方に住んでいる庶民はグルメとはほど遠い食事をしていました。
家康や、天海のように長寿を全うした人は食に対してのこだわりがあったこと。そして、幼少期の頃に食べていた物や故郷の味を大人になっても大切にし、食生活を変えなかったことが生き残った勝ち組の勝因でしょうね。出されるがまま食していたために発症した将軍たち。裕福が故の“江戸患い”。当時の農民のように貧しくても身体が資本。何より健康が一番ですね。